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Comments(8)

"答えなき問い" on Jan 15, 2005

写真は料理に似ていると思う。
何を作るか考え、材料を吟味し下準備。火加減などを考えながらじっくりと味を作る。隠し味もあったりして。
そして綺麗に丁寧に皿へ盛り付けをする。食べてもらう。おいしかったと言ってもらえればさらにヨシ。
でも僕が撮っている行為はレシピも何もなく、その時々の思いつきだけなのである。ただそれだけのこと。
もしそこに真実があるのだとすれば、それは紛れも無く自分がそこに立ちシャッターを押したことぐらいだ。
写真、特にスナップ写真などに表現を求めてはいけない。
瞬時に感じた心の焼き付け、それだけで十分だと今は思う。
写真を学ぶよりもその感性と心のバランスを磨くことが先決だ。
本来のスタートはそこにあるべきで、もしそこにあるならば到着する場所は「写真」でなくてもいい。
考え方が逆だった。答えなど出るはずもない。
さて、冷蔵庫にあるもので何か作ろうかな。

Comments

フォトサイトを持つようになってから、毎日が勉強デスヨ?!
素敵な写真を撮るヒトに興味を抱き、そのヒトのコトをもっと知りたくなる。
日記をマメにチェックするようになる。気がついたらその人に憧れてた。。。
という管理人さん、いっぱい居ます?!
「自分は自分」って基本的な考えは変わらないんだけど、プラスαが身についたかも。
知らなかったコトに興味が湧いてきたりね!
ヤマサキさんからもイロイロ影響受けてるんですよん♪
アレとかコレとか、え?ソンナコトまで?とな。
ヤマサキさんから一番学んだのは、「もっと写真撮るべ」ってコトかな?
Posted by: akko_blanket on Jan 15,2005
>スナップ写真などに表現を求めてはいけない

激しく同意です。
わたしは自分の表現のために写真を撮ったコトは多分、ほとんどないんです。
そんな大それた目的は始めから持っていない。
ただ目で見たものを残しておきたい。
そしてその見た世界を誰かとシェアできたとしたらステキだな、と思うのです。
だから自分を無理矢理カテゴライズするとしたら『スナップ写真家』がいちばん近いかも。
だから「これはどういう写真か説明して」なんて言われたら固まっちゃいます。
だって写真て絵と違って見たまんま写ったまんまだから。

ニーサンのウソのない写真がすごく好きです。
Posted by: keico on Jan 15,2005
道具を選んだり撮りたいと思ったり、そういう時点ですでに表現になっているのではないでしょうか。
いやシャッターを切り写真として残すこと自体がそうなのかも知れません。少なくても僕にとっては。
例えば料理人は自分の味を皿の上の料理で表現するでしょう。
調理機具にしろ具材や調味料にしろ盛り付けにしろこだわればこだわるほど限りはないと思います。
しっかりと仕込みをして下味を付け、感性とバランス感覚で調理をする。
こういうことって経験が全てなのかなと思います。そのためにはそれなりの知識も必要でしょう。
でもいくら手が込んでるからと言ってもそれが美味しいとは限らないですよね。
男だろうが女だろうが母親の手料理の味は生涯忘れられないでしょうし、
僕はおおざっぱに作ったくらいの料理の方が好きですし。

写真と料理が似ているのであれば、
僕にとってヤマサキさんの写真はまさに漁師の料理です。
僕の故郷は漁師町でもあるのですが、
やっぱり浜の人たちは本当に美味しい食べ方をよく知っています。
Posted by: サイジョー on Jan 15,2005
thank you ALL.
反応ありがつ!

僕は皆様よりも写真に関してはすごく後輩でございます。缶コーヒー買って来いと言われたら、無糖ですよね!と言いながら走るくらいの。いやまだママのお乳を吸ってるぐらいかも。こばわ。
そんな僕ですが、今日はちょっと書きたい気分。失礼あればお許しを。
いやWEBサイトっておもしろいですね。akkoちゃんがおっしゃるように、最初はその人のテキストなり写真なりに惹かれて、で何回か見てるうちにその人自身への興味もどんどん大きくなってくんですよね。僕はたまたま写真というものに巡り合えてようやく友達っぽくなってきたところです。たまに全く会いたくなくなったり、でも急に会いたくなったり。ちょっとHな関係にまではまだ至ってはいないですが、僕のHな部分はファインダ越しに全て知ってるという、何とも妙な関係です。文句も言わす、コレだと言ったらちゃんと一生懸命その一瞬をネガへ焼き付けてくれる。いいヤツです。でもまだそれくらいの浅い関係です。もっと知り合いたいですけどね。
その人の写真が好きということでその撮影者が好きか?というのは余りにも安直過ぎるでしょうし、すごくイイ写真を撮ってる泉ピンコとかはちょっと微妙。ですが、少なからずその感性という部分には惚れてしまってますよね。写真って表現とか云々ありますけど、僕は感性だけだと思うんですよ。技術的なモノは学べるんです。絶対学べる。それはね。でも本質的な部分って絵でもそうだろうけど、どうしようもなく唯一のその人自身ですからね。教えてもらってわかるもんじゃない。僕がいつも悩んでるのは、この逆光をどう撮ってグラデーションをキープするかとかそんなことじゃなくて、網膜から脳へ伝達されたその一瞬を自分の魂(心?)でどう考えるか、そんなことぐらいなんですよ。それが何かを感じた飾り気のない本質だと思っています。表面的な技術論は二次的なものであって補足にしか過ぎない。楽しければ撮ればいい。哀しい時もそれを残したければね。何もルールなんて必要ない。その行為自体が僕はその人自身のホントの写真なんじゃないかなと思います。今はね。よく写真に愛情が感じられないと言うような評論を耳にしますが、愛情無い日なんてしょっちゅうですからね。それでも写真を撮り続けるんです。全く愛情を感じないモノに対しても、全く逆だとしても、それはそれで自分が何かを感じている訳ですよ。勿論説明不可能。そんな説明を第三者の為に考え悩んでいるより、また新しい何かを思った瞬間にシャッターを押し続けてる方がよっぽど自分の為になるような気さえします。僕はそれがほんとの日常写真なんだと思います。でもたまに「おっ、このシーン、ちょっとカッコよく撮ってやるかな!」と思う時もあります。あの景色の手前に通る自転車を待って、その部分をちょっとブレ気味に、とかね。誰もが欲を出してしまいますよね。でもそうなると僕の中ではそれはわざとらしい「表現」というニュアンスになってしまうのも本音です。勿論「表現」そのものを否定している訳ではないのです。それは「表現」する(求める)為に写真している人がほとんどですから。こうやってWEBに公開すること自体、何かを伝えたいという表現なのかも知れませんから。何かの意思がある限り、自ずからそれは表現という概念に置き換えられてしまう訳ですから。第三者的な方向から見られた場合、何かをそこに求めるのは当然の行為でしょう。ひょっとしたら僕自身が考えるスナップというものは、一般論的な写真という定義の中には無いのかも知れません。写真とは何かと聞かれたら、今の僕は「日常です」と言うしか他に言葉がないです。そこには残すべき被写体というよりも、残しておきたい心の記録、とぐらいしか今は言えない。いつか写真論をブチかましてそこいらの連中をギャフンと言わせる日が来るのでしょうか。僕にとっての写真って、鉛筆で紙に書く、ただの日記のようなものなのかも知れません。自分の日記に何も表現など有り得ない。ただただ心の日常です。だから正しい日記、間違った日記もないのです。それはまさに写真にも同じことが言えるような気もします。職業にしてませんし、スナップしか撮ってないから平気でこんなことが言えます。そこに残されたモノがその撮影者自身であれば僕は嬉しい。僕のこんな写真でも好きだと言ってくれる人がいる。でもそこにあるのはまさに僕自身だから少し照れます。釣り上げたばかりの魚をその船上でササッとさばいてクチに入れる。そこには二次的要素な食の表現なんて皆無です。今うまいから食う。それです。
Posted by: ヤマサキ on Jan 16,2005
「肉体」という言葉と「身体」という言葉。肉体は官能的とか罪悪感などのイメージですが、身体というと
記号的で精神的なイメージ。「東京」と「都市」も同様。東京は新宿とかゴミ箱とか歌舞伎町や風俗店など
生々しく、都市というと記号化され知的で人間と言うものが消えてしまう印象を受けます。難しいですね
「表現」と言うとアート、いわゆる芸術性のイメージが強くなる感じがしますね。テーマ/題材、表現/手段...
混乱することしきりです(笑) 言葉は意味を持たざるを得ないですからね。

写真は比較的アナーキーなところがあって、言葉にすると色んな意味がからんでくるものでも、意味性を
そぎとって、ただただ綺麗なものとして撮れてしまうことも可能なわけです。撮れてと受身にしたのは、
写真の場合、完全にコントロールすることは難しく、撮影者の意図とはうらはらに、結果としての写真には
偶然の要素も多々あるからです。またその写真を見ながら、あとからそこに意味を付加することもできる
わけで、写真と言うのはとてもあいまいでウソつきな所もあると思います(笑) なので僕にとって写真は
「表現」とか「記録」という言葉より、むしろ「記念」といった方が近いかもしれません。

表現と言うことで考えるならば、見ると言うことは人間の体をくぐりぬけなくてはならないので、眼差しその
ものがすでに個人の表現といえるかも知れません。 あぁ矛盾している、また混乱してきました(笑)
『 写真は秘密の秘密、語れば語るほどわからなくなる (ダイアン・アーバス) 』
Posted by: ホサカマモル on Jan 16,2005
おぉー、アーバス! なぜそこまでして真実を記録するんだ!
って、ホサカさん、こばわー。メッセジありがとうございます。またこんな時間にも関わらず焼酎お代わりした男です。どーも。表現って自分以外の場所へ何かを意図した時点でそうなってしまうような気がします。それは形として表立ったものでもないかも知れませんよね。ごくごく自然に発する(発してしまう?)表現という結果も多々有り得る訳ですし。でも僕はその能動態が発する意味を定義付けることよりも、それを受けて単純に共感できた自分であるならば、とてもそれは得したような気になります。ものすごく単純に。その共有できた喜びというのはそれこそ単純にすごく嬉しいですもん。もちろん無名の写真家であったとしてもそういう次元では某有名写真家と全く同じラインなのです。要は自分で何がどうなのか、それだけわかってればいいような気もします。それを何故か邪魔したり深めたり、いわゆる左脳攻撃をしかけるのが言葉だったりします。それもまた余計な付加要素であったり、また逆に倍増させる付加価値でもあったりしますから混乱してしまうんです 笑。でも絶対的なことは目が先だってことですよね。もちろん言葉で作ったテーマに沿い、それに準じたイメージを撮るという作風もありますけど、それはまた僕やホサカさんが思っているものとは少し違うジャンルなような匂いがプンプンしています。まさに自分が唯一遭遇できた「記念」。そう、簡単に言えば心と現実との遭遇による記念写真というのが一番フィット、かつ正しい言い方かもですね。
僕は偶然性にもスナップの醍醐味を感じます。と言うかそれが為に徘徊し続けているのかも知れないですよ。意図の無い写真を撮りたいと思ったところで、それを考えた時点で意図されている訳で、目を瞑って1本撮り続けるぐらいしないと真のモノとは成り得ないですから。撮り続けてると「あっ、またこのパターンか、前にも撮ったよな」って思うことがよくあります。特に現像した時に思います。でもその中から1枚でも偶然に撮れてたいいコマがあったらすごく嬉しかったりします。歩き続けた甲斐があったみたいな喜びで。よく偶然に撮れた写真はそれまでだ、みたいなことを言われますが、偶然こそすごい確立なんですよね。その1枚の為に何日も放浪していたり 笑。そう考えるとその偶然の為だけに僕はスナップを探し続けてるのかも知れないなぁ...。意図しない素の写真。それが自分自身の心と合致したとき、これこそがホントに好きな自分の写真なんだなぁ、なんて思ったりしますねぇ。なかなか無いからこそねぇ。
Posted by: ヤマサキ on Jan 16,2005
ヤマサキさん 素敵ね・・
ちょっと 胸キュンしました・・・・
Posted by: 綾センセ on Jan 16,2005
綾センセ、コメントありがとうございます。僕は結局何もわかってなくて、思い方も明日になったらコロっと変わってるような男です。写真への考え方に対してもまだまだ発展途上な過程に過ぎないので、随所にみられる矛盾事については笑って流してやって下さい 笑。全てのことに関してもっと広い受け口を持ちたいものですなぁ...。
Posted by: ヤマサキ on Jan 16,2005

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